記念碑的な表現

荘厳な建築物と教会の勢力

ドイツにおいて宗教が辿ってきた歴史を活き活きと感じることができるのが、ドイツ古都連盟の都市です。過去2千年のヨーロッパ中における宗教の発展で、ドイツも大きな役割を果たして来ました。
紀元4世紀のトリアの人口は6~8万人。ローマ帝国に属する6人の領主に支配される時代を送ったトリアは、コンスタンティヌス皇帝の時代(西暦306~316年)には、アルプス以北で最大のキリスト教都市に発展します。

ローマ教皇の代理人としての大司教、および中世におけるドイツ国王の選帝侯としてのマインツは、あらゆる面で莫大な影響力を持っていました。「黄金のマインツ」と自己形容していた自信にも、権力のほどがうかがえますが、今でもライン河畔のマインツの呼称として残っています。ユダヤ人の伝統である “Magenza”(ヨーロッパにおけるユダヤ民族の学術と文化の意) も中世時代から20世紀まで続いていました。学者の町としての名声を築いたのは、神への祈りと学問です。

数多くの教会と大聖堂によって、アウクスブルクは司教の管轄する地区として認められています。1518年、マーティン・ルターとカエタン枢機卿が有名な討論を行った場所です。このように、宗教と権力の中心地という2役を果たすことにより、他都市では見られない個性がアウクスブルクに創られていきます。エアフルトにあるゴシック様式のアウグスティノ修道院の歴史は、1277年まで遡ります。
院内では、修道士として1505年から1511年まで住んでいたマーティン・ルターの業績が常設展示されています。

カール大帝の命により送られてきたフリースラント(オランダ)のリユートガー修道士が建てたミュンスターの修道院は、現在では彼の名前が付けられています。宗教改革が激烈な形で始まった時期、再洗礼派の教徒が反乱を起こしたのがミュンスターです。1628年、最後のプロテスタントがミュンスターから追放されることになります。

合法的な宗教としてのキリスト教

紀元313年、ローマ皇帝コンスタンティヌスは、ローマ帝国においてキリスト教を正当な宗教として公認しました。これに伴い、ローマ帝国都市のトリアはアルプス以北でキリスト教を布教する中心地になります。ローマ宮殿は20年も経たない内に壊され、代わりに建造された最大の古代キリスト教教会が、いくつかの変遷を経て現在のような大聖堂になりました。

4世紀初頭に描かれ、コンスタンティヌス宮殿に属していたと思われる天井画が、大聖堂の十字交差部の地下3メートルで発見された後、約6万個におよぶ絵画の破片を集め、ほぼ40年をかけて大聖堂内で新たに組み立てて修復しました。

その後200年にわたり、ドイツの多くの種族は、紀元485年から政治的に制覇していたフランク王国の支配下に入ります。496年、西欧のキリスト教の擁護者としてフランク王クロヴィスは改宗し、フランク族はキリスト教徒になります。

みどころ

  • コンスタンティヌス帝のバジリカ(Konstantin Basilika)、トリア

  • 大聖堂(Dom)、トリア

  • 聖マティアス修道院(Abtei St. Matthias)、トリア

  • 大聖堂・大司教博物館(Dom- und Diozösanmuseum)、トリア

キリスト教を広める宣教師

ヴュルツブルクの名声の基盤は、アイルランドから3人の宣教師が人々を改宗させるためにやって来た686年に始まります。3人は殺害され、後に聖人として認められてから、多くの巡礼者が訪れるようになります。紀元742年、聖ボニファスがヴュルツブルクの司教の管轄区を定め、最初の司教に聖ボーカートを指名します。今日の「マリエンベルク城塞」は昔要塞があった場所に建設されました。

みどころ

  • マリエンベルク城塞(Festung Marienberg)、ヴュルツブルク

  • 大聖堂(Dom)、ヴュルツブルク

  • 大聖堂博物館(Museum am Dom)、ヴュルツブルク

発展を遂げるキリスト教

863年、町を一望に見渡すハイデルベルクのハイリゲンベルク山上にある古代ケルト人の城壁の中に、聖ミヒャエル修道院が建てられました。同じ時期に、ヴォルムスの司教管轄区は影響力を森林地帯の中まで拡大していました。教会の尖塔は、神に近づく願いを込めて、空高く伸び始めていました。また同じ頃、教会の聖職者や司教は徐々に政治への影響力を強め、宮殿や城は財力を確保していました。今日では廃墟しか残っていないミヒャエル修道院はヘイリゲンベルク山上にありますが、「哲学者の道」に沿って歩いて行くことができます。

宗教改革で芽生え始めた人道主義

14世紀のルネッサンス時代、人道主義運動がドイツに広がり、多くの人たちがカトリック教会の絶対力に対して疑問を抱き始めました。マーティン・ルターは1505年にアウグスティノ修道院に入って、直ちに修道士の誓願をたてています。エアフルト大学で神学を学ぶうちに、人道主義の思想に傾倒していきました。マーティン・ルターは、1505年から1511年まで修道士としてアウグスティノ修道院に住んでいました。今日、修道院の敷地内にある建物は、貴重な書籍を備えた図書室と共に、ルターの人生を語る常設展示場になっています。

みどころ

  • アウグスティノ修道院(Augustinerkloster)、エアフルト

  • 大聖堂と聖セヴェリ教会(Dom und St. Severikirche)、エアフルト

  • 商人の教会(Kaufmannskirche)、エアフルト

宗教改革のはじまり

1517年、ルターはヴィッテンベルグで95ヶ条の論題の書簡を送り、これが宗教改革が始まるきっかけになりました。ルターは数ヶ月後、ドイツ最古の高等学問機関であるハイデルベルク大学に暖かく迎えられ、ルターはこの命題を新たに訴えます。多くの教会や大聖堂は当時、アウクスブルクを司祭の場所として定めていました。1518年、マーティン・ルターとカエタン枢機卿は有名な討論をハイデルベルクで行なっています。

みどころ

  • ハイデルベルク大学旧校舎(Alte Universität)、ハイデルベルク

  • ルター記念碑(Luthertafel)、ハイデルベルク

  • 聖アンナ教会(St. Anna-Kirche)、アウクスブルク

  • 大聖堂と聖セヴェリ教会(Dom und St. Severikirche)、エアフルト

  • アウグスティヌス会修道院(Augustinerkloster)、エアフルト

  • 商人の教会(Kaufmannskirche)、エアフルト

宗教改革を拒否した多くの都市

町によっては、宗教改革は暴力的な抵抗を受けました。1532年、ミュンスターに福音主義が導入されて激怒したのは再洗礼派です。反乱は最終的に再洗礼派の敗北という形で終わり、再洗礼派の指導者3人は処刑されました。民衆への警告として、処刑された再洗礼派を3個の鉄の檻に入れ、聖ランベルト教会に吊るしました。現在でもその檻は教会前に掛けられています。その後、1628年、最後のプロテスタントがミュンスターから追放されました。

宗教の領土主義

1530年、ルター派のアウクスブルク信仰告白が起草され、1555年にはアウクスブルクの和議が結ばれました。これは、宗教の寛容というよりも、宗教の領土権の協定が定められたものです。ドイツ帝国内においてカトリック主義とルター派の存在を認めると共に、市民は領主が決定した宗教を受け入れるべきであるとの提案をしたものです。

また、ウェストファリアの和議の交渉と署名を行ったのもミュンスターとオズナブリュックで、これにより1648年、30年戦争が終結しました。プロテスタントとカトリックの指導者が合うことを互いに拒否したため、2つの場所が必要とされたのです。スウェーデンは、自国がプロテスタントなので、オズナブリュックを望み、フランスは自国のカトリックを背景にミュンスターを指定するという具合でした。条件の中で、この協定は、神聖ローマ帝国内の300の領土内でカトリックとプロテスタントが平等であることを宣言しています。

みどころ

  • 聖ランベルティ教会(St. Lambertikirche)、ミュンスター

  • ウェストファリアの和議の市役所(Rathaus des Westfälischen Friedens)、ミュンスター

  • 市役所、平和の間(Rathaus, Friedenssaal)、オズナブリュック

ユダヤ人の追放とホロコースト

マインツの長い歴史の中でも、最も華麗だった一時代は10世紀初期です。その後の400年間、マインツは貿易が繁栄し、多くのユダヤ人にとって魅力的な町となりました。ユダヤ人の優れた教師やラビもライン河畔の都市に集まって来ました。彼らの教え、対話、決定、そして影響力によって、マインツや周辺のライン河畔の町々は世界に広く知られるようになりました。

ドイツでは、ユダヤ主義は数百年にわたり、苦しみと悲劇の歴史を繰り返しています。ユダヤ教会やユダヤ人墓地はエアフルトをはじめとするいくつかの町に残っていますが、多くの場所では、ユダヤ教会が存在していたことを思わせるのは銘板しかありません。マインツの「ユダヤ人墓地」には、ヨーロッパ最古の墓石があります。

オズナブリュックには、1904年にオズナブリュックで生まれ、1944年にアウシュヴィッツで殺害された芸術家、ヌスバウムに因んだフェリックス・ヌスバウム・ハウスがあります。ヌスバウムの印象的な作品は、彼の人生の記録であり、ユダヤ商人の家庭での「幸福な幼児期」から芸術家としてのベルリンでの成功、そして迫害されたユダヤ人としてのベルギーでの亡命生活まで、他に例がない稀有な画家の記録となっています。美術館の建築と絵画の間に漂う創造溢れる緊張感は、ホロコーストにおけるヨーロッパのユダヤ人の運命を決して忘れてはならないことを、私たちに教えてくれます。

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